TAKEO タケオ  「新倉壮朗の世界」

takeoyume.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2011年 09月 01日

菊地成孔氏の映画「タケオ」感想抜粋

06年のドゥドゥンジャエローズ公演のアンコールに於ける新倉氏のパフォーマンスからは、
そこにいる総ての者を、感動といった表現ではとても記しきれない啓示的なまでの、
圧倒的なメッセージを受け、早速当日のブログに評を描き、
自著にも記させて頂いておりますし、ラジオ番組等々のマスメディアでも、
機会があるたびに公言しています。
私の06年以前からの読者と聴衆の多くは、このエピソードを記憶していると思われます。

といった身ですので、つまり私は、本作に対して、
知的にも情緒的にも大変なバイアスがかかっており、
本作をドキュメンタリー映画批評として、
冷静かつ客観的に、自分が納得行く様に、的確に文章化できるかどうか、
甚だ自信がありません。

私は、ドゥドゥの自宅で新倉氏がセッション中に立ち上がって踊り出した瞬間から
落涙が止まらなく成り、それはほとんどラストまで止まりませんでした。

私は本作に対し、例えば、ある少数の人々が、
3/11の被災者として、3/11の記録映画を、冷静に観る事が出来ない様にして、
冷静に観られない。
つまり、僅かながらの「当事者」であると自認しています。

何らかの障害がある者から、稀に天才的な芸術家が輩出されるという事について、
我々は既にかなりの事を知っており、そしてほとんど何も知らぬ様な状態です。

詩や絵画などの視覚芸術に「アウトサイダーアート」や「素朴派」という概念があり、
既に一般化していますが、俗な言い方をすれば「キチガイ」の描いた絵や詩は
見れば一目の後に我々は障害や病理を感じ取る、
しかし、こと音楽に関しては、その作品からは、作曲者や演奏者が障害者や病者、
所謂<アウトサイダー>であることはまったく認識出来ない。
ここに視覚と聴覚の稜線があり、身体性を考える新しい領域があるというのが私の持論ですが、
本作は、私が観た06年のパフォーマンスと同じく、
ややもすれば受け止めきれぬほどの雄弁なメッセージを発しており、
俗流の「障害者と健常者の物語」というクリシェを大きく逸脱している様に思います。

ダウン症候群の人々に多く観られる「おおらかさ」に関する一般的な理解の甘さを、
新倉氏が痛快なまでに打ち壊して行く様は素晴らしく、
特に、新倉氏の、卓越したサバールの技術よりも上であろうと思われる「指揮」の力、
どんどんリーダーシップを掴み、周囲を支配、教育してしまう、
ある種カリスマ的でデモーニッシュですらあるとも言える
(私は、日本人がアフリカ人に対し、積極性と開放性で上を行き、
アフリカ人が所謂「バカ負け」をして、しかも説得されてしまう。
という図を、少なくとも映画では見た事がありません)、

あらゆる力のありようは、我が国に於ける、
第一には障害という大現象の細部についての無知、
そして第二には音楽、特にリズムという大現象に対する無知を一撃でこじ開け、
その後、我々がまだ何も知らぬ、人間同士のコミュニュケーションと、
そこから発せられる生命力の根源について、大いに啓発すると信じて止みません。

そしてそれは、本作冒頭が、
「指揮をする新倉氏」の姿から始まっている事に表されていると思います。

常田富士男氏のナレーションと、母親のナレーションのみが交差する、という構えも含め、
作品の開始当初は「障害者=天使」的なクリシェかと戸惑いながら、
それえは僅か数分で霧散します。


菊地成孔氏の映画「タケオ」感想抜粋_b0135942_1136328.jpg


by takeo_yume | 2011-09-01 10:38 | タケオの映画


<< 「タケオ」上映&トーク&ミニライブ      9月のスケジュール >>