TAKEO タケオ  「新倉壮朗の世界」

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2014年 03月 06日

「努力と克服の美学」と「悲運への哀れみ」

東京新聞社説(3月3日)より抜粋。

芸術分野に限らず、
障害者がハンディを乗り越えて才能を開花させた的な話題が
もてはやされるのはなぜか。
メディアが繰り返し強調する「努力と克服の美学」が、
健常者の心の内奥に影を潜めている「悲運への哀れみ」を
浄化してくれるからかもしれない。

幼いころから障害者のみを引き離す教育の仕組みも罪深いと思う。
健常者に「障害者は別世界の住人」という意識を植え付け、
存在への関心を失わせてこなかったか。

障害と健常の違いは曖昧だ。
講演中にマイクが壊れれば、聴衆の耳は不自由になる。
でも、手話通訳に頼る障害者は不自由しない。
障害者ばかりが美化されがちなのは健常者本位の社会だからだ。
双方が等しく暮らす社会なら安易な美談は生まれまい。 (大西隆)

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タケオの場合も取材を受けて、記事になると
「ダウン症を克服して」「ダウン症にもかかわらず」が強調される。
克服もしていないし、人一倍頑張っているわけではないとお話しても
世間に公表する時にはおおむね脚色(?)される。
どうしても「障害=不幸」の式が万人の意識下にあり、
それに応える記事になってしまうのだと思う。
アートや音楽は障害を前に出さなくてもやれる世界なのに、
作品そのものよりも障害が強調される。
障害者本人は同情や憐れみの目線で見られるのを極度に嫌い、
同じ人間としてみてと願っている。

障害者を多くの人が持っている能力が劣っている人と位置つけているが、
障害でなく能力差ととらえてほしい。
障害というマイナーの認識でなく、どの人にもある能力の違いだと思う。

すべての人が違いや異質を拒まず、相手を思いやり、
受け入れる寛容さを持つように心がけたら、
生きやすい世の中になるのではないかと思う。
そのためにはごちゃまぜ社会で寄り添いながら日々暮らしていきたい。

「努力と克服の美学」と「悲運への哀れみ」_b0135942_11132611.jpg


by takeo_yume | 2014-03-06 10:57 | 日記


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